TOP > バックナンバー > Vol.15 No.3 > モータリゼーションに挑む(1961-1972)
大量輸送、高速化に応え、日本と地理条件の似たヨーロッパで主流だったアンダーフロアエンジンを国内初導入したBD10型「ブルーリボン号」に搭載された(図2)。「ブルーリボン」の名称は社内公募によるもの。一般公開時には、「このバスにはエンジンが無い」など世間を驚かせた。その後同車の発展形として、エンジンを車両中央部床下から後部床下に移設したリヤアンダーフロアエンジンバスRB10 型に搭載された。エンジンの整備性が大幅に向上し、床面すべてを広く客室スペースとした。
DS120型開発と時を同じくして1956(昭和31)年冬、暖房もない雑品倉庫の片隅で始まった極秘プロジェクト。1955(昭和30)年の国民車構想によるルノー4CV、コンマース製造を経て開発されたコンテッサ(図5-7)に搭載。コンテッサはイタリア語で“伯爵夫人“を意味する。「性能は国産一級に」を基本方針とし、社外テストでは試験部隊が車を擬装して毎夜走らせた。走行テストでは日野ルノーのドライバーが「試作車は速くてついていけない」と漏らしたほど。コンテッサ900は、1963(昭和38)年の第一回日本グランプリレースで1、4、6位入賞の快挙(図8)。その後、世界戦略車構想として砂漠の過酷な条件下でのテストと改良を行った1300ccのGR100型(図4)を開発し、ジョバンニ・ミケロッティのデザインを身にまとい、国際自動車エレガンスコンクールで3年連続3度名誉大賞に輝いた。
アポロ11号が月へ行き、東名高速道路が開通したころ登場した「ワンナップ“赤いエンジン”」と名付けられ、「飯を喰わない力持ち」との評判のヒット商品となったシリーズのうちの1機種で、日野初のDI(直噴)であったEA100型の後継機種である。これ以降、日野のエンジンは赤い塗色を施している。同時期のED100型は、MAN社のM方式、慣性過給を取り入れた。技術に加えて、販売部門の「D号作戦(Dはディーゼルの頭文字とドイツ語での3分の1を意味し、市場の3分の1を制覇するということ)」の努力もあり、トップメーカーに躍り出るきっかけとなった。大型TC300 系(前2軸11トンカーゴトラック)、KF300系(後2軸11トンカーゴトラック、図12)、KS300系(前2軸後2軸11.5トン低床トラック、図13)に搭載された。エンジンの設計当初は、クランクシャフトベアリングの油膜厚さの課題があったものの、油膜厚さは研究的に計算手法が学会で発表されはじめた時期でもあり、それらを活用して克服した。世界初4軸低床型のKS300系は、ユーザーからの「段ボール箱をもう1段余分に積めないか」の声に応え、流通コスト低減という時代のニーズを先取りした。また、この時期から自動車産業では、「自動車はアフターサービスを売る」と言われるようになり、いち早く海外でのアフターメンテナンスの充実を視野に入れて、海外実習生の受け入れを始めた。
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