TOP > バックナンバー > Vol.15 No.3 > 軍需産業から総合自動車メーカーへ(1942-1960)
日野オートプラザ(八王子市みなみ野)に展示されているエンジンや車両を中心に、歴史や技術の変化点に合わせて代表的な機種を紹介する。
日野自動車の原点はガス器具会社「東京瓦斯工業株式会社」だ。2代目社長の松方五郎は、陸軍の「軍用自動車補助法」制定の動きをいち早く察知し自動車産業への進出を決意する。元請会社であった千代田瓦斯が、渋沢栄一の「東京瓦斯株式会社(現・東京ガス)」にシェアで敗れたためと言われている。TGE-A 型は、そのような経緯で生まれた純国産トラックであり、優れた独自設計・開発で日本初の保護自動車資格検定書を授与されている。
松方五郎は、「われわれは勉強や努力を通り越して命がけでやってきた」と振り返っている。
技術者 星子勇も、陸軍の保護自動車資格に合格しなければ再び会社に戻らぬ決意を持って臨んだという。
日本の自動車産業が確立した頃、日米通商条約破棄により石油輸出をボイコットされ燃料を奪われた日本では、ガソリンエンジンの約半分の総燃料費で済むディーゼルエンジンの開発が注目された。当時は、池貝自動車、三菱重工、新潟鉄工らが一斉に開発を進めた。日野重工業では技術者の星子勇が、1917(大正 6)年からディーゼルエンジンの研究を続けており、25年を超す研究開発の経験および固有技術の蓄積を有していた。そのため、陸軍が統制エンジンの制定に踏み切った際、作業の中核を担うことができた。各社の特徴を融合させ、共通エンジンに集約する作業は、昼夜を問わず取り組まれた。DB52型(図3)は日野工場の地下工場で生産され、大砲の牽引車用(図4)に搭載。その後、トレーラバス(図5)に転用される。
日野ヂーゼル工業としてスタートし、新製品であるTH10型トラック(図7)、BH10型バス(図8)に搭載された。他社が統制エンジンにこだわったことで積載量が5~6トンだったのに対し、新エンジンの搭載により積載量7.5トン積みを実現した。同エンジンを搭載したバスは、鉄道網の整備が遅れていた北海道で大いに歓迎された。10年間生産されたロングセラーとなる。予燃焼室式、デコンプ装置、オイルバス式エアクリーナを採用。伝統のエアブレーキ用コンプレッサを初搭載。
さらにこの時期の技術陣は、並行して電気自動車であるトロリバス(図9)の開発に邁進していた。石油資源の少ない日本にとって、ディーゼル化とトロリ化こそ自動車の未来を切り開くと確信していた。
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